神様の御守護が受けられる信心とは、成り行きそのものを大事にさしてもらって、 どんなことでも自然との対決において迎えうつことができる構えを作っておく修行 ・心行。
昭和五十四年二月十七日 朝の御理解
御理解 第八十節 「年寄を大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたのではない。みな、神のおかげで生まれてきたので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄を敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれんようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい」
不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれんようになる。信心する者はよう心がけておるがよい。この辺のところを頂かなければいけない。と言う事はどういう事になるかと言うと、結局、信心して徳を受け年を取る程信心の位を頂いて、言うならば神様から大切にされる信心を心がけるがよいと言う事だと思います。同時に、信心させて頂く者はよう心がけておけ、それは年寄りはそれだけ世のためになったのだから敬うのぞ、大切にするのぞ、というふうに教えておられますね。大切にせよと、敬うのぞと、言わねばならない程に年寄りが粗末にあつかわれとると言う、私はこの事実と言うかね、年寄りがこの辺の言葉で言うと、いらん者にされる、とこう言う。だからそういう者は、信心させて頂く者がいらん者にしちゃならん大切にせなならんとこう言うとる。
同時に信心させて頂く者の心がけとしてです、不都合、不行き届きが続くと年をとって敬われないようになる。だからそういう事のないように信心させて頂く者は、心がけておかなければならん。その心がけという事はどういう事かと言うと、信心の心がけですね。 徳を受け、それこそ神様から大事に取り扱うて貰えるような内容を作っておけよ、というのです。
昨日は矢次さんところの恒例の謝恩祭でしたが、昨日あちらで聞かせて頂いたんですけども、とにかくまだ私がお腹の中からの信心ですからと言われるから、もう七十何年信心が続いとるわけです。しかもずうっと御両親が大変熱心であったという事は、あちらのお社を見ればわかるです。見事なお社がしつらえてあり、もうわざわざあつらえられたものだと思います。
毎年、年々歳々宅祭りを続けて来られて久留米で御縁を頂かれた方ですけれども、久留米から合楽に移られるその間、しばらく宮ノ陣の先生が見えられてお祭りを仕えておられたですね。そして合楽に移られてからこの方という者は、もう年々お祭りをなさいます。 七十年間迷わず狂わずもう一途に、金光様よりよか信心はない。もう思い込みです。迷っておるという事がない。途中でグズついたという事がない。これを貫いて来ておられる。その貫かれるという一途なものがやはりおかげになるという御理解をあちらで頂いたんですけれどもね、だからその一途なものがあるという事だけではなくて、それに言うならば今日の御理解で申しますと不都合不行届のない生き方なんです、人に敬うてもらういわゆる内容なんですね。
これは私、いよいよ身に徳をつけていく、徳を受けなくても神様、先日から頂きますようにね、守られるといってもウ冠に寸と書いて守られる。これは言うならばその人の信心に応じて神様が頼まんでも願わんでもこのおかげを下さる、力を下さる、守って下さる。そうすると彳扁の衛るという字がある。守衛の衛という字ね。これはちよっと神様には一途だけども、すること言うことなす事の中には、神様が「こら、信心しよってそげな事でよかか」と言われるような事もあるわけね。だから神様から御覧になるとハラハラするようなところを通っておっても、その一途な心に免じていつも彳偏の衛をもって衛っておって下さるわけ。だから神様がそういう意味あいでの衛って下さるという事では行く先が非常に淋しい悲しい。
ところがです、段々と内容が変わって信心になり、日々信心の喜びの生活をさして頂く、本当のところに焦点を置いて、それこそ日勝り、月勝り、おかげを頂くだけではなくて、その内容が日勝り、月勝りのおかげの頂けれるその内容になってくる。
「信心しておれば一年一年位がつくものであり、一年一年有難うなってくるものである」という信心にならせて頂く時に、先は不安がないね、神様の御守護ね、いわゆるウ冠の守り神様の御守護を頂き通しに頂いておるという実感とね。もう先の事は神様に委ね任せてある、只 一途な信心とこう言うてもです、段々年をとって、ほんに若い時にならこの位な事なら本気で修行でもするとすぐおかげ頂きよったけれども、もう年取ったけんそげな事も出けんと言うように淋しうなってくるね。だから心が賑やかに有難うなっていくためにはやはり教えを身につけていく信心をさせて頂かねばならん。
昨日末永先生が今度中近畿の方の十四日会に参加して、あちらで先生方からいろんな質問をうけた。いわば合楽で御神夢という事を言われるが、合楽に御縁を頂くようになったら、いろいろとそのお知らせだろうと思うような御神夢を頂く。けども頂いてもわからんから、合楽が見えたらいっちょ尋ねてみようと思われた先生が何人か末永先生に質問があった。
一人の先生は、もうとにかく神様がわかりたい神様を頂きたい、本当に生きた神をいうならば感じたい。まあ言うならば神の声でも聞きたい、神の姿でもあるものなら見たい、というような信心の情熱を持っておられる若い先生がね、泉か川か知らんですけれども、この寒中にそこで二時間位御祈念をされる、そして後の一時間はその川の中に入って一生懸命大祓を上げられる。そういうふうにして修行さして頂いてもです、神様の「か」の字も感じることが出来ない、頂く事が出来ないという若い青年教師の悩みなんですね。
今は合楽ではそういう言うなら表行はもう全廃されとります。それはもうきついからせんのじゃない、それは間違いだとね。小倉の桂先生の御伝記の中にもそれがあります。
あそこに紫川という川があります。その川を例えばはっきりはわすれましたけども、十回なら十回向こうに泳いで行ってはこちらに泳いだり、その修行を寒中になさった。もう何回目かに身体が凍ってしまって途中で身体が動かんごとなった。あわやもう溺れられるという様な時やっと岸に泳ぎつかれた時に、神様からね「こういう修行は神が許さん」とおっしゃった。だから本当に合楽がいま言っておる表行ということは、全廃しなければ金光教の信心の本当の真髄というものはわからない。それでも表行より心行せよという、その表行しちゃならんとは言うてないけんと言うて、それでする人が沢山ありますけれどもこれは間違いだと。金光教の独自性と言ったようなものもそんな事で無くなってしまう。本当に心行一途にならなければいけない、そういう質問があったと。
もう一人の方からはどういう質問があったかと言うと、刀を、いわゆる真剣を抜いてある何かに斬りつけた。ところがそのはね返って来て自分が腕を怪我したというお知らせあった。
信心は真剣にせないかん。真剣勝負のようなものだから真剣に真剣にと言われるんですけども、真剣と言うてもこちらから打ち込んでいくような修行はいかんと言うことです。 以前、桜井先生が椛目時代よく寒中になりますと耳納山の滝場に行っておかげ頂いたもので、あの時分でも一遍もうそのまま凍死するかと思うような危険なところを桜井先生は一遍通っておられますけどもね、あの時分は表行が盛んでしたから、それでも本当に最高の表行をしたような気持ちだったけどそれではいけん。そういうことでは。
それで今日はその二人の先生方に返事を出さなきゃならんのでどういうふうに言うてやったらよいだろうかというお伺いが末永先生からございました。
それで私が申しました事はね、そういう川の中に寒中に一時間もつかっとくといったような行は、もう金光教の修行の中にはない。そこでもう一人の先生が頂いとるように、いうなら行というものは、こちらから打ち込んで行くのじゃない、こちらから斬りつけて行くのじゃない。もうどこまでも受身ね。いつ打ち込まれてきてもという構えを作っておくだけなんだ。為に心行があるんだ、家業の行がいるんだ。家業そのものが行であり、心行をさせて頂いておる、その事が構えなんだ。だからいつどういう事がおきてきてもドッコイと迎え打つ事が出来る。もうこの修行をする以外はない。その二人の先生の例をとるとだからよくわかるね。
いよいよ合楽で言う「成行きを大事にしていく」「すべての事柄に御の字をつけていく」しかもこれは一歩でも後すざりする事のないですむように構えを作っておくということね。そういう修行をさしていただいてね、言うならば「おきてくる事柄その事を、神様が私に下さる求められるところの修行である」として受け止めていくところにいよいよ信心の力もつけばお徳も受けられると言うのが合楽理念である。合楽理念はそう説くね。
そういう信心をさせて頂くから、腹の立つ事もなからなければモヤモヤする事もないわけですよね。腹が立つ問題でも有難いと受けて行くとじゃから。そういう生き方をするところに、人から敬われずにおれない内容が出来てくる。いわば神様からいよいよ大切にされる御信用、神様のお徳が受けられるという事になるのです。
只 一途なというだけの信心はそれは若い時には出来ても年を取るとなかなかできません。それが頑固な一つの何と申しましょうかね。頑固な根性になってしまうようなきらいいがございますね。ですからいよいよ信心させて頂く者は一年一年有難うなっていく、いわば位がつくのじゃとおっしゃる。その位を頂いていく実感がね、なからなきゃいけん。 二、三日前 毎日 福岡の古屋さんから電話がかかってくるんです。今病院におられますから、それにお家には一人、九十九才になるお婆さんが一人留守番しておられる。だからもう病院に一緒に来てもらおうと、一緒に病院からまかないもしてもらえるからと言われるけれども、いやぁ私はお家で一人でまだ何でもなさるわけです、元気なんです。そして二、三日前が九十九才のお誕生日であったその御礼のお届けがあったんですけどね。これなんかは神様から大事にされておられると思うですね。九十九になってもまあだ自分で食べる事位しなさるわけ。も 言われる事に間違いない、九十九才です。
だから神様から大事にされておるということ、誰がおらんでもいいのですね。また、お徳頂いて神様から大事にされるということは、もっともっと素晴らしい事であろうと思われますけれどもです、神様から尊ばれる、神様から大事にされるという事は、一途な信心にプラス言うならば心行、家業の行が出来るおかげ、そして成行きそのものを大事にさしてもろうてどういう事が起こっても、どっこいと受け止められる信心ね。
自然との対決においてです、いつでもそれを迎えうつ事が出来るだけの構えと言うものを作っておかなければならない。よう心掛けておくがよいと言っておられるが、そういう心掛けをもって信心を進めていくならばですね、必ず神様の御守護いわゆる神様の守りを受けておる実感が日々刻々感じられるのですから、先が不安がない、神様から大事にされる、神様があの人を使いこの人を使うて言うなら勿体ないようなお取扱いが受けられるような年寄りを目指さなきゃならない。また若い者に対してはここではどう言っておられるかと言うと、年寄りを大切にせよとこう言っておられるから勿論大切にしなければならんどころではありませんけども、我々がなら年寄りになった時にです、先はどげんなるだろうかと不安な思いがするような事ではいけない、不安な思いがするような信心ではつまらんね。
もう神様に大事にされると言う確信の持てれるような信心を頂きたいですね
「どうぞ」